「真実の口」1,659 Coffee Brake 32

先週 13 日、ボクシング・元ミドル級世界王者マービン・ハグラーが、急逝した・・・。

ボクシングを愛する者として、敬意を払いながらも、敢えて、敬称無しにする。

66 歳。

早過ぎるだろう・・・(ノ ゚Д゚)ノ ==== ┻━━┻

ハグラーは、 1980 年代、シュガー・レイ・レナード(アメリカ)、ロベルト・デュラン(パナマ)、トーマス・ハーンズ(アメリカ)等と“中量級黄金時代”を築き上げた一人である。

因みに、現在のボクシングにはミニマム級~ヘビー級の 17 階級が存在しており、ミニマム級( 47.61kg 以下)からスーパー・フェザー級( 57.16 ~ 58.97kg )を軽量級、ライト級( 58.97 ~ 61.23kg )からスーパー・ミドル級( 72.5 ~ 76.20kg)を中量級、ライト・ヘビー級( 76.21 ~ 79.38kg )からヘビー級( 90kg 以上)を重量級と、大きく 3つに分類される(※注)

(※注)  以前は、○○級の一つ下を「ジュニア○○級」と呼んだが、現在は、○○級の一つ上の階級を「スーパー○○級」と呼ぶようになったので、今寄稿では、現呼称に統一している。(例:ジュニア・ミドル級➡スーパー・ウェルター級)

つまり、中量級は、人類で一番人口が多いウェイトということになる。

ハグラーは、スキンヘッドと彫像のように鍛え上げた褐色の身体が特徴だった。

マービン・ハグラー

ニックネームは「 Marvelous (驚異的)」。

何故、驚異的かというと・・・。

身長 177 cmとミドル級としては、決して大きな方ではなかったが、パンチ力、強固なガード、打たれ強さは群を抜いていた。

サウスポーのオールラウンド・ファイターで、元々右利きで右強打が武器だったため右構えにスイッチすることも多く、両利きのフォームから動ける完璧なテクニック、強打、試合運びの巧さ、強靭なメンタルを備え、「ミスター・パーフェクト」とまで称されていた程である。

時を戻そう・・・(笑)。

1970 年代初頭、モハメド・アリ、ジョージ・フォアマン等を筆頭とするヘビー級全盛期のボクシング界に、一人の中量級のスーパースターが誕生する。

ロベルト・デュラン

ロベルト・デュラン

ニックネームは「 Hands of Stone (石の拳)」。

デュランは、 1968 年、 16 歳でプロデビューし、 1972 年 6 月 26 日、無敗のまま WBA 世界ライト級王者 ケン・ブキャナン に挑戦し、 13RKO 勝ちで王座に就いた。

世界王座に就いてからも、デュランは、怪物的な強さを発揮し、今ではタレントとしての方が知名度ある後に WBC 世界王者となるガッツ石松や、タフで鳴らしたレイ・ランプキン等の実力者を相手に、 10 連続 KO を含む 11 度の防衛を達成。

ライト級王座を返上したデュランは、 1980 年 6 月 20 日、 2 階級上の WBC 世界ウェルター級王者シュガー・レイ・レナードに挑戦する。

シュガー・レイ・レナード

シュガー・レイ・レナード

本名は、レイ・チャールズ・レナードだが、ボクサーとして活動する際、尊敬する“拳聖”シュガー・レイ・ロビンソンにあやかって、シュガー・レイを名乗った。

ニックネームは、「 Super-express (特急)」。

1976 年、モントリオールオリンピックで、ジュニア・ウェルター級の金メダルを獲得し、 1977 年にプロデビュー。

1979 年 11 月 30 日、無敗のまま、ウィルフレド・ベニテス(プエルトリコ)から 15RTKO 勝ちを収め、 WBC 世界ウェルター級王座を獲得。

ここで登場したウィルフレド・ベニテスだが、 15 歳 2 カ月でプロデビューし、史上最年少の 17 歳 6 ケ月で世界王座を獲得し、スーパー・ライト級、ウェルター級、スーパー・ウェルター級の 3 階級制覇を成し遂げた名王者である。

当然、それぞれのボクサーと絡んでくる。

レナードは、 1980 年 6 月 20 日、デュランとの決戦を迎える。

当初、レナードのスピードが勝ると予想されていたが、デュランは天性のボクシングセンスを発揮し、僅差ながら、予想外の判定勝ちを収めてデュランは 2 階級制覇を達成する。

この勝利に、母国パナマは大熱狂し、時の大統領が仕向けた大統領専用機で帰国すると、この日が「デュランの日」という祝日に制定されるほど大騒ぎとなった。

レナードは、王座から陥落するとともに、プロ初黒星を喫したことになる。

しかし、 5 ケ月後の 11 月 25 日の再戦では、徹底的なヒット・アンド・アウェイ戦法を取るレナードに、フラストレーションが溜まったデュランは、 8R に腹痛を訴えて試合放棄同然の TKO 負けを喫することになる。

この試合に対して、ルイジアナ・ボクシング・コミッションは「不満足な試合内容」を理由に 7,500 ドルの支払いを命じ、更に、フィトマネーの支払い差し止等々のゴタゴタに発展し、このときデュランが放った言葉「 No・mass(もうたくさん)」は、後に、ノー・マス事件として有名になる。

勝利したレナードは、 1981 年 6 月 25 日、アユブ・カルレから WBC 世界スーパー・ウェルター級王座を獲得し、 2 階級制覇を達成するが、タイトル返上。

1981 年 9 月 16 日、後にレナードと共に 5 階級制覇を遂げる WBA 王者トーマス・ハーンズとの世界ウェルター級王座統一を掛けて激突。

トーマス・ハーンズ

トーマス・ハーンズ

初期のニックネームは、「 Machine-gun Tommy (マシンガン・トミー)」、後に「 The Hit Man (殺し屋)」。

アマチュア時代は、 155 勝 8 敗の好成績だが KO 勝利はわずかに 12戦のみとワンツー主体の非力なアウトボクサーだった。

しかし、 1974 年にアメリカの名トレーナーに出会い、才能を開花させ、 1977 年 11 月のプロデビュー後は強打者に変身し、いきなり 17 連続 KO 勝ちを収めた。

1980 年 8 月 2 日、プロ3年目で WBA 世界ウェルター級王者、ホセ・クエバス(メキシコ)への挑戦が実現し、 11 度( 10KO )の防衛を果たし、最強王者と言われていたクエバスに 2RKO 勝ちを収め、王座を獲得し、その後 3 度防衛。

そして、 1981 年 9 月 16 日、レナードとの王座統一戦を迎える。

「 20 世紀最後のビッグファイト」と銘打たれた一戦は、序盤、ハーンズにペースを握られるが、レナードが 14R 1 分 43 秒逆転 TKO 勝ちを収め、 WBA と WBC の王座統一を果たす。

しかし、レナードは、試合後に網膜剥離が発覚し、 1982 年 11 月、引退を発表。

ハーンズは、 1982 年 12 月 3 日、ルイジアナ・スーパードームでウィルフレド・ベニテスを判定で下し、 WBC 世界スーパー・ウェルター級王座を獲得し、 2 階級制覇に成功。

一方、レナードに敗れたデュランは、 1982 年 1 月 30 日、ハーンズが勝利を収めたウィルフレド・ベニテスの持つ WBC 世界スーパー・ウェルター級王座に挑むも判定負けを喫している。

更に、 9 月 4 日のノンタイトル戦でも、格下と見られていたカークランド・レイン(イギリス)にも判定で敗れ、どん底の日々を送る。

しかし、 1983 年 6 月 16 日、デビー・ムーア(アメリカ)の持つ WBA 世界スーパー・ウェルター級王座に挑み、デュラン不利の予想を覆し、 8R 2 分 0 秒 TKO 勝ちを収め、 史上 7 人目の 3 階級制覇を果たすと共に、完全復活をアピール。

勢いに乗るデュランは、同年 11 月 10 日、 3 団体統一世界ミドル級王者マービン・ハグラーに挑む。

マービン・ハグラー

マービン・ハグラー

上で紹介したので、詳細は省く。

1973 年 5 月 18 日、 2RKO 勝利でプロデビュー。

順調に白星を重ねるが、その強さに王者が対戦を忌避し、「無冠の帝王」の称号が与えられる。

1979 年 11 月 30 日、 WBA ・ WBC 世界ミドル級王者ビト・アンツォフェルモ(イタリア)に挑戦するも、ハグラー圧倒的有利の下馬評だったが、王者のインファイトに苦しみ引き分けに終わる。

1980 年 9 月 27 日、 WBA ・ WBC 世界ミドル級王者アラン・ミンター(イギリス)と対戦し、 3R 1 分 45 秒 TKO 勝ちを収め王座獲得に成功。

1981 年 1 月 17 日、フルヘンシオ・オベルメヒアス(ベネズエラ)と対戦し、 8R 20 秒 KO 勝ちを収め初防衛に成功。

1981 年 6 月 13 日、ビト・アンツォフェルモと 1 年 7 ヶ月ぶりに対戦し、 4 R終了時棄権による TKO 勝ちを収め 2 度目の防衛に成功。

1981 年 10 月 3 日、ムスタファ・ハムショ(シリア)と対戦し、 11R 2 分 9 秒 KO 勝ちを収め 3 度目の防衛に成功。

1982 年 3 月 7 日、ウィリアム・リー(アメリカ)と対戦し、 1R 1 分 7 秒 TKO 勝ちを収め 4 度目の防衛に成功。

1982 年 10 月 31 日、フルヘンシオ・オベルメヒアスと 1 年 9 ヶ月ぶりに対戦し、 5R 2 分 35 秒 KO 勝ちを収め、 5 度目の防衛に成功。

1983 年 2 月 11 日、トニー・シブソン(イギリス)と対戦し、 6R 2 分 40 秒 TKO 勝ちを収め、 6 度目の防衛に成功。

1983 年 5 月27 日、ウィルフード・サイピオン(アメリカ)と IBF 世界ミドル級王座決定戦も兼ねて対戦し、 4R 2 分 47 秒 KO 勝ちを収め、 WBA ・ WBC 王座は7度目の防衛、 IBF 王座も獲得に成功。

そして、 1984 年 6 月 15 日、アメリカ・ラスベガスで、ハグラー vs デュランの一戦が実現する。

結果は、デュランが、“石の拳”と称された右を好打するなど互角の戦いを演じるものの、 14R 以降スタミナロスで失速し、ハグラーの的確なパンチを浴び、判定にもつれ込んだものの 3-0 でハグラーの勝利となった。

しかし、それまでの防衛戦を全て KO 勝利で飾っていたハグラーに対して、 15R 判定までもつれ込ませるとは、流石にデュランである。

ハグラーは、デュラン戦後・・・。

1984 年 3 月 30 日、ファン・ドミンゴ・ロルダン(アルゼンチン)と対戦し、 10RKO 勝ちを収め、 9 度目の防衛に成功。

1984 年 10 月 19 日、ムスタファ・ハムショと 3 年ぶりに対戦し、 3RKO勝ちを収め、 10 度目の防衛に成功。

敗れたデュランは、 1984 年 6 月 15 日、 WBC 世界スーパー・ウェルター級王者トーマス・ハーンズと対戦。

結果は、“ ラスベガス恐怖の一撃 ”と呼ばれる破壊力抜群の右ストレートでハーンズが 2R 1 分 0 秒 KO 勝ちを収め、 4 度目の防衛に成功となった。

デュランに勝利したハーンズは、 1985 年 4 月 15 日、 3 階級制覇を賭け、統一ミドル級王者マービン・ハグラーに挑戦することになる。

“THE FIGHT”と銘打たれた一戦は、ハグラーが圧倒的強さで 3R 1 分 52 秒TKO 勝ちを収め、 11 度目の防衛に成功。

勢いに乗るハグラーは、 1986 年 3 月 10 日、当時プロ戦績 26 戦 26 勝無敗 26 連続 KO 勝利中という最強挑戦者ジョン・ムガビ(ウガンダ)と対戦し、 11R 1 分 29 秒 KO勝ちを収め、 12 度目の防衛に成功。

そして、この試合の解説をしていたのがレナードだった・・・。

レナードは、最強挑戦者を退け、 12 度目の防衛を成功した最強王者といわれたハグラーに勝てると確信し、現役復帰を決意する。

敗れたハーンズは、 1986 年 6 月 23 日、マーク・メダル(アメリカ)と対戦し、 8RTKO 勝ちを収め、保持していた WBC 世界スーパー・ウェルター級王座の 4 度目の防衛に成功する。

1987 年 4 月 6 日、「 THE SUPER FIGHT 」と銘打たれたハグラー vs レナード戦、距離を取るレナードに対して追うハグラー、試合は判定までもつれて、 1-2 (115-113、110-118、113-115)のスプリット・デシジョンでレナードの判定勝ち。

王座を陥落したハグラーは、 37 歳で引退。

戦績: 67 戦 62 勝 52 KO 3 敗 2 分。

統一世界ミドル級王座 12 度防衛。

一方、ハグラーに敗れたハーンズは・・・。

1987 年 3 月 7 日、デニス・アンドリュース(ガイアナ)と対戦し、 10RTKO 勝ちを収め、 WBC 世界ライト・ヘビー級王座を獲得し、 3 階級制覇に成功。

1987 年 10 月 29 日、王座決定戦でファン・ドミンゴ・ロルダン(アルゼンチン) 4RKO に下し、 WBC 世界ミドル級王座を獲得し、史上初の 4 階級制覇に成功。

1988 年 6 月 6 日、アイラン・バークレー(アメリカ)に 3RTKO で敗れ WBC 世界ミドル級王座陥落。

1988 年 11 月 4 日、ジェームス・キンチェン(アメリカ)を下し、 WBO 世界スーパー・ミドル級王座を獲得し、史上初の 5 階級制覇を達成。

ハグラーに勝利し、 3 階級制覇を達成したレナードも・・・。

1988 年 11 月 7 日、 WBC 世界ライト・ヘビー級王者ドニー・ラロンド(カナダ)と 168 ポンドのキャッチウェイトで対戦し、 9RTKO 勝ちを収め、新設された WBC 世界スーパー・ミドル級及びライト・ヘビー級の 2 階級の王座を同時に獲得し、ハーンズに続く 2 人目の主要団体での 5 階級制覇を達成。

そして、いよいよ、 WBO 王者ハーンズ vs WBC 王者レナードの王座統一戦が行われる。

1989 年 6 月 12 日、再戦の結果は、ハーンズが二度のダウンを奪うも、最終回にレナードの猛反撃を許し、引き分けに終わる。

しかし、全体的にハーンズ優勢と見る意見が多く、シーザース・パレス屋外特設会場を埋めた観衆はレナードにブーイングを浴びせ、ハーンズの勝利を支持した。

その後のレナード・・・。

1989 年 12 月 7 日、ロベルト・デュランに判定勝ちし、 WBC 世界スーパー・ミドル級王座を防衛。

1991 年 2 月 9 日、 WBC 世界スーパー・ウェルター級王座戦で王者テリー・ノリス(アメリカ)に 12R 判定負けを喫し、試合後のリング上で引退を表明。

1997 年 3 月 1 日、 IBC 世界ミドル級王座戦で 6 年ぶりに現役復帰するも、ヘクター・カマチョ(プエルトリコ)に 5RTKO 負けを喫し引退。

戦績: 40 戦 36 勝 26 KO 3 敗 1 分。

その後のハーンズ・・・。

1991 年 6 月 3 日、ヴァージル・ヒル(アメリカ)を 12R 判定で下し WBA 世界ライト・ヘビー級王座を獲得。

1992 年 3 月 20 日、アイラン・バークレー(アメリカ)に 12R判定負けを喫し、 WBA 世界ライト・ヘビー級王座陥落。

それ以降は、マイナー王座に矛先を移す。

1994 年 1 月 29 日、 NABF 北米クルーザー級王座獲得。

1995 年3月31日、 WBU 世界クルーザー級王座獲得。

1999年4月10日、ネート・ミラー(アメリカ)と対戦し 12R 判定月を収め、 IBO 世界クルーザー級王座を獲得。

2000 年 4 月 8 日、ユーライア・グラント(ジャマイカ)と対戦し、 2RKO 負けを喫し、 IBO 世界クルーザー級王座陥落、同時に現役引退を表明。

2005 年 7 月 30 日、ジョン・ロングと対戦し、 8RTKO 勝ちを収め、 5 年ぶりの復帰を果たす。

2006 年 2 月 4 日、復帰 2 戦目を 10RTKO 勝利。

戦績: 67 戦 61 勝 48 KO 5 敗 1 分。

その後のデュランは・・・。

無冠となってからも試合を重ねていく。

1989 年 2 月 24 日、 WBC 世界ミドル級王者アイラン・バークレー(アメリカ)に挑み、 12R 判定に持ち込み、スプリット・デシジョンで判定勝ちを収め、 4 階級目のタイトルを獲得。

1994 年 6 月 25 日、ビニー・パジェンサ(アメリカ)と対戦し、 12R 判定負けを喫し、 IBC スーパー・ミドル級王座陥落。

1995 年 1 月 14 日、ビニー・パジェンサとリマッチを行い、 12R 判定負けを喫し、王座奪還ならず。

1996 年 6 月 22 日、ヘクター・カマチョと対戦し、判定負け。

1998 年 8 月 28 日、ウィリアム・ジョッピー(アメリカ)の持つ WBA 世界ミドル級王座に挑戦するも、棄権による 3RTKO 負けを喫す。

2001 年 7 月 14 日、ヘクター・カマチョ戦と対戦し、 12R 判定負けを喫し、 NBA スーパー・ミドル級王座陥落。

戦績、 119 戦 103 勝 70 KO 16 敗。

彼らにより、一つの時代が築かれた。

ハグラーの死は、妻ケイさんが 13 日、フェイス・ブックで公表し、死因は明らかにされていない。

ただ、芸能情報サイトTMZは、ハグラーが自宅で呼吸の障害と胸の痛みを訴え、 13 日に病院に運ばれたと伝えている。