「真実の口」228 続・東北地方太平洋沖地震

東北地方太平洋沖地震の信じがたい続報が、次々と飛び込んでくる。

その惨状に家族で絶句している・・・

以前にも書いたことあるが、阪神・淡路大震災の時、私は外資系保険会社の神戸支社で働いていた。

当時、私の勤めていた会社は、当時のトップである故坂口陽志史会長の号令の元、その日に対策チームを立ち上げ、今、何をすべきかを即断した。

我々は、移動できる人間は大阪に拠点を移し、契約者・被保険者及び社員とその家族の安否確認に全力を尽くした。

Docomo、セルラー、ツーカーなどの携帯各社あったが、NTT DoCoMoだけが最後まで繋がっていた。

そのためDoCoMo使用者は安否確認できるが、その他の会社の使用者にはなかなか繋がらなかった。

当然、電話での安否確認には限界がある。

我々は、地震から3日後、数人のチームを組んで、被災地へ直接乗り入れることになった。

ご存知のように、交通網は寸断されていた。

当然、緊急車両や工事車両が優先されるため、車での乗り入れは出来ない。

神戸へ一番近い駅は、JR甲子園口だった。

当時、甲子園口から東側、つまり大阪方面向かう人と、甲子園から西側、つまり神戸側に向かう人の服装の違いに違和感を覚えた記憶がある。

地震の影響の少なかった大阪では、地震当日あるいはその翌日から、普通に仕事をして、普通に生活を送っていた。

しかし、甲子園を境に、着ている服がジャージであったり、作業着であったり、着の身着のままという風だった。

甲子園から歩いていける範囲までは歩いて被災地へ入り、神戸の西側へはスクーターを使い奥まで入っていった。

鞄には、オニギリとペットボトルの水。

一歩踏み入れた被災地は、とてもこの世の物とは思えなかった。

それこそ、戦争があったか、怪獣映画でゴジラが街を破壊しまくったかというような惨状だった。

我々は、とりあえず、住所を元に家を探す。

幸い、家屋が無事で安否を確認できる人もいた。

しかし、届けられた住所が、瓦礫の山で、そのうえ焼けて跡形すら残っていない場合もある。

後は、避難所探しである。

避難所へ行き、大きな声で名前を叫ぶ。

△△▽▽さんはいませんか?・・・△▽▽さんを知りませんか?・・・。

いない場合は、掲示板へ伝言を遺す。

そうやって、何日もかけて、全顧客及び社員とその家族の安否確認を行った。

安否が確認できたときには、思わず涙が流れ出た。

16年前、こんな地震は二度と起きないだろうと誰もが思った。

しかし、現在、日本は戦後最大の危機を迎えている。

被災地では、安否確認を行うものの、津波で壊滅状態になり、生存の確認どころか、どこにいるのかさえ把握できない。

阪神大震災は、人口密集地帯と言うこともあり、死者:6,434名、行方不明者:3名、負傷者:43,792名という被害を出したが、兵庫、大阪、京都の一部という狭いエリアでの被害であった。

今回は、北海道から関東までという広範囲で被害を出している。

食料・水も不足する。

まだ春が遠い東北地方である。

十分な暖も取れていない。

交通網は寸断され、輸送手段も限られている。

東京電力・東北電力は、電気の供給能力が不足により、節電を呼びかけ、政府も計画停電の実施を決断した。

西日本に住む私がいくら節電しても、周波数の違いから、我々が節電した分がそっくりそのまま被災地へ電気を供給できるわけではない。

しかし、それでも無駄なエネルギーを使わないように心がけたい。

以前の日本は助け合いによって支えられていた。

いつの頃からか、『自分さえ良ければ・・・』、『私が何をしようと勝手・・・』というような風潮になってきた。

しかし、今回の危機は、日本人全員が一丸となって、立ち向かわなければ乗り越えられない。

関東大震災、広島・長崎への原爆投下、阪神・淡路大震災と数々の危機から我々は復興してきた。

今回も我々は復興できる。

そして、それに際して、新しい価値観を作り上げる必要がある。

今、自分に何が出来るのか?

今、自分は何をすべきなのか?

考えるだけでなく、即、行動に移さなければいけない。

当ブログを楽しみにしているという希有な方も少なからずいる。

しかし、私のブログを読むより、今、すべきことが他にあるのでは無いだろうか?

私も、今、すべきことを行動に移すため、少なくとも3月いっぱいはブログを休止する。

最後に、今回の震災の被災者の方々に心からお見舞い申し上げるとともに、犠牲になられた方々にお悔やみ申し上げ、哀悼の意を表す。

所在不明になられている方が、一人でも多く、生きて見つけられることを心から願う。