「真実の口」375 三度目の被災地入り⑨

アニョハセヨ~

緊張状態の続く朝鮮半島に、今月、2度目の訪韓である。

訪韓記は、また後日ということで、前回の続き・・・。

陸前高田市を後にした私は、国道45号線を南下して、約15分程度で気仙沼市に着いた。

気仙沼湾へと車を走らせる。

堆く積まれた瓦礫の山・・・。

気仙沼市内の瓦礫① 気仙沼市内の瓦礫②

今回は、少し早いが・・・。

因みに、気仙沼市の瓦礫処理の状況は・・・。

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2012/4/9時点の震災瓦礫処理状況(環境省公表資料より)

瓦礫推計量:136万7千トン
※ うち建物解体に伴う瓦礫発生推計量:33万トン

解体を除いた瓦礫推計量に対する撤去率:100%
解体を含んだ瓦礫推計量に対する撤去率:99%
※ 撤去は仮置き場への搬入のこと。

処理・処分量:2万5千トン
処理・処分割合:1.9%
※ 破砕・選別等により有価売却、原燃料利用、焼却やセメント焼成、埋立処分等により処理・処分された量。

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震災直後の映像で、気仙沼では、津波により何隻もの船舶が津波に呑み込まれ、陸地へ打ち上げられている映像を目にした。

特に、400tクラスのまぐろ魚船をはじめとして、市内には17隻の大型船が、打ち上げられていた。

震災から2ヶ月が経過し、5月に入り、ようやく、23日に第3明神丸、28日に第8八幡丸とこれらは大型クレーンによって、陸から海へと撤去された。

第3名神丸 第8八幡丸

第3明神丸は、その後、静岡県の三保造船所で修復工事を行い、8月22日には、焼津港からインド洋の漁場に向け出港したそうである。

その後も、打ち上げられた大型漁船は、クレーンで海に戻されたり、あるいは解体されたりして、次々と、陸地から撤去され、17隻のうち16隻は昨年までに、陸地から姿を消している。

このための撤去には7億~8億の費用が費やされたという。

しかし、全長約60m・総トン数約330トンの第18共徳丸、ただ一隻は、未だ手つかずのままである。

第18共徳丸① 第18共徳丸②

第18共徳丸は、福島県いわき市の「儀助漁業」所有で、ドックでの定期検査で寄港していた。

そして、震災で津波を受けて、鹿折地区・岸壁から約500m内陸深くまで津波で流されてきて、現在の場所に鎮座しているというわけである。

船主は費用が漁業保険でまかなえる解体を希望したが、気仙沼市が「待った」をかけて現在に至るというのである。

これには様々な思惑が錯綜しているようだ・・・。

市としては、この付近に復興記念公園を作り、第18共徳丸を震災の象徴としてのモニュメントにして保存する考えがあるらしい・・・。

現に、私が第18共徳丸の近くに車を停めて、眺めていたら、異様な光景を目にした。

観光バスが停まり、ゾロゾロと観光客が降りてきて、船を前に、笑いながら記念写真を撮るだけ撮ってあっという間に立ち去った。

また、中学生位の子供を連れた家族らしい4人組がタクシーで乗り付けて、船の周囲をぐるりと見て回り、同じように、記念写真を撮って、去って行った。

この人達は、何を考え、この場から、何を感じ取ったのだろうと疑問に思う出来事だった。

この大型船自体に罪はないのだが、間違いなく、様々なものをなぎ倒し、踏みつぶして、ここまで流されてきたはずである。

もちろん、現在、鎮座している船の下にも、建物があったのだ。

気仙沼市は、後世に伝える意義を強調しているようだが、果てさて・・・。

何だか、心にもやもやしたものを抱えたまま、気仙沼市街地を車で走り、再び、国道45号線に戻り、南三陸町を目指した。

次回へ・・・。