「真実の口」509 東日本大震災から2年・・・②

前回からの続き・・・。

前回訪問時と同じように、海岸から500m~1kmの内陸部を南北に走る相馬市と南相馬市を結ぶ主要地方道路である県道74号線を、相馬市・南相馬市と南下していき、現在も警戒区域下にある双葉町まで、南下しようと思ったのだが・・・。

途中、先を急ごうと、県道74号線から離脱して、国道6号線を使うルートを選択した。

しかし、それが間違いだったようである。

道路や信号の復旧工事のためか、数カ所が片側通行になっており、その中に、復旧のためのトラックも混じっており、渋滞になっていた。

双葉町を目指したが、残り12km地点で、既に11時を回ってしまったため、この渋滞を引き返すことを考慮して、双葉町は断念せざるを得なかった。

車を北上させながら、石巻市を目指す。

国道6号線~常磐道~三陸自動車道と乗り継ぎ、1時半に石巻市追悼式会場の河北総合センター(通称:ビッグバン)に着いた。

ここは、被害の大きかった石巻魚港から、15kmほどの内陸に位置する。

未だに、被害状況がそのまま残る石巻漁港周辺だと、震災を思い出す遺族や被害者の方を考慮してのことなのだろうか???

2時少し過ぎたくらいに、会場へとはいる。

石巻市追悼式

パイプ椅子なのが、若干、心配のタネだった・・・。

2時半に式が始まり、石巻市の有志による合唱があった。

自らで作った詞のようなのだが、私には、聞くに忍びなかった・・・。

石巻市長の式辞の後、式場前方に置かれたモニターが、内閣府主催の追悼式の放映に切り替えられ、地震の起きた2時46分に黙祷・・・。

そのまま、安倍首相の式辞、天皇陛下のおことばと、追悼式の様子がモニターで続けられた。

その後、式場では、衆議院議員等の追悼の辞が続けられた。

私が、根っからのへそ曲がりなのかからかもしれないが、このような場所での、議員先生の言葉は、全く、心に響いてこない。

所詮、名前を売るために来ているんじゃないか(?)と思ってしまうからだ。

今回、参列した議員先生の名前を挙げるのを止めておこう。

その後、追悼電報披露・・・。

そして、ご遺族代表のことばと続いていった。

この方は、震災で奥様を亡くされたと言うことだった。

震災の1週間前に、些細なことで喧嘩して、予定していた温泉旅行を取りやめたらしく、震災の前日に、ようやく、仲直りができたらしい。

仲直りの証に、震災当日の朝、写真館で2人の写真を撮ったらしく、キャンセルしてしまった旅行も翌日に出かける約束をしたという。

そして、2時46分・・・。

尋常ではない揺れ方に、消防団に属していたご主人は、奥様にすぐに高台へ逃げるように告げると、消防団本部へと駆けていった。

救助をしながら、自身も、命からがら高台へ避難したモノの、奥様のことが気がかりで仕方なかったという。

寒い中を、同じ高台へ避難した人々と、眠れぬ一夜を過ごし、夜が明けて見た生まれ育った故郷を見て、愕然としたという。

避難所で奥様を懸命に探すものの、見あたらない。

ご近所の人で、地震後に、近所で歩くことが出来ない高齢のお婆さんを助けている奥様を見かけたという人がいた。

結局、奥様は未だ見つかっていないという・・・。

架設所暮らしで、今でも、夜になると眠れないため、睡眠導入剤に頼らなければいけない。

あの日の写真を見ながら・・・。

ただ、このような状況にも関わらず、自身の話を真剣に聞いてくれたり、身の回り事を手伝ってくれるボランティアの人たちがいたから、今でも生きていることが出来ると感謝されていた。

私は涙を止めることが出来なかった・・・。

石巻市では、死者3,948人に及び、未だに448人が行方不明のままである。

宮城県全体では、死者10,427人、行方不明者1032人。

ご遺族代表の方のことばで思ったのだが、何も出来ることがないと思っている方も、話を聞くというだけでも、被災者の心の負担を少しはは軽くすることができるのであれば、行動にうつしてみたらどうだろう???

また、追悼式からの帰りの車中、テレビをつけていたのだが、行方不明になった方の捜索のために、何度も東北入りして、海岸や荒れ地を探す手伝いをしている人もいるらしい。

まだ、東日本大震災は終わってはいない・・・。

復興も・・・。

皆で出来ることを・・・。

切に・・・。