「真実の口」661 東日本大震災から3年

昨日で、東日本大震災から3年が経過した。

私は、上海から帰った翌日の3月9日から東北入りしている。

詳細は、後日、報告する。

大阪伊丹空港を8時15分発の飛行機に乗り、仙台空港に着いたのは9時25分だった。

レンタカーを借りて、陸前高田市へ向かう・・・。

多くの人に足を運んで欲しいという願いから、陸前高田市では、日曜日に追悼式を行ったからである。

追悼式は、10時から正午までなので、間に合わないのだが、献花は4時くらいまでは受け付けている。

昨年と同じ会場である高田小学校へ、2時過ぎに着いた。

会場へ足を運ぶと、椅子等の撤去をしていた高校生(?)達に出会った。

皆、声を揃えて、元気に「こんにちは」と挨拶をしてくれた・・・。

私の子供たちと変わらない年齢である・・・。

会場へ足を運ぶ。

準備された献花用の花を手に取り、献花台へ向かう。

東日本大震災陸前高田市追悼式

手を合わせる。

私の後にも次から次と献花に来る人が絶えない・・・。

翌3月10日、福島県へ向かった。

国道6号線を南下し、途中から、宮城県亘理と福島県相馬市を結ぶ県道38号線を利用した。

現状は後日報告するとし、詳細は省く。

南下すべく車を走らせると、前回と同じ場所で、通行止めになっていた・・・。

復旧は進んでいないのだろうか?

通行止めを回避すべく、国道6号線と並行している農道を利用する。

その後、福島県道74号線を利用して、再び、6号線に合流して南下していく。

前回、原発事故のため敷かれていた南相馬市原町区大甕(おおみか)の検問所は無く、普通の光景に戻っていた。

更に南下して15km程進むと、新たな検問所が設けられていた。

浪江町検問保所

南相馬市と浪江町の境付近である。

2012年4月1日、警戒区域は一部解除され、「避難指示解除準備区域」「居住制限区域」「帰還困難区域」と3つに分類された。

この検問所は、「帰還困難区域」にあたり、ここから先は許可証が無ければ入れない・・・。

「避難指示解除準備区域」……年間積算線量が20ミリシーベルト以下の地域。通過交通や住民の一時帰宅、事業再開などが可能(宿泊は禁止)。

「居住制限区域」……年間積算線量が20ミリシーベルトを超える恐れのある地域。通過交通や住民の一時帰宅、インフラ復旧などのための立ち入りが可能だが不要不急の立ち入りは控える。

「帰還困難区域」……現時点で年間積算線量が50ミリシーベルト超の地域。避難の徹底を求める一方、可能な限り住民の意向に配慮した形で一時立ち入りを実施。

ここから引き換えし、6号線を北上していると、奇跡の一本松の看板が目に入り、立ち寄ってみる。

南相馬市奇跡の一本松 南相馬市奇跡の一本松

3月11日、東日本大震災から丸3年・・・。

震災で一番の犠牲者が出た石巻市追悼式へ向かう。

会場は、昨年と同じく、石巻市追悼式会場の河北総合センター(通称:ビッグバン)。

2時30分、追悼式の開式。

東日本大震災石巻市追悼式

石巻市立女子高等学校の合唱部・吹奏楽部による合唱・・・。

石巻市長の式辞の後、式場前方に置かれたモニターに、国立劇場で行われている内閣府主催追悼式の放映に切り替えられ、地震の起きた2時46分に黙祷・・・。

安倍首相の式辞、天皇陛下のおことばと、内閣府主催追悼式の様子がモニターで続けられた。

そして、式場では、例のごとく、衆議院議員等の追悼の辞・・・。

その後、追悼電報披露・・・。

そして、ご遺族代表のことばと続いていった。

前回と違い、女子学生だった・・・。

地震直後、瓦礫の下にいる母親を発見したが、襲ってくる津浪に、母親の救助と自身の命を天秤にかけざるを得ない状況の中、彼女は自身が生き延びることを選択した。

母親に「ありがとう」という言葉を残し、母親の「行かないで」という言葉聞きながら、泳いで渡ったという。

地震とは、こんな若い娘が究極の選択を乗り越えなければいけない状況を、一瞬で作るのかと言葉を失ってしまった。

その後、献花をするのだが、真ん中列の真ん中よりやや後ろに座っていたにもかかわらず、何故か、一番最後の献花になってしまった。

3年経って、復興が進んでいるところもある。

しかし、ようやく一歩を踏み出したかなと言うところの方が殆どである。

ただ、東北の人は、日々を生きている・・・。

何もできてなくてもいい・・・。

この日を忘れないでほしい・・・。