「真実の口」1,005 不如意・・・参

前回の続き・・・。

前回、『皇室御用達』という言葉に触れた・・・。

皆は、『皇室御用達』というものをどのように捉えているのだろう?

言葉通り、「皇族が愛用されている品々」という具合だろうか・・・?

更に、踏み込めば、「厳しい診査を通過した確かな品」みたいな感じだろうか・・・??

ただ、残念ながら、『皇室御用達』という制度自体が存在しないと言ったら如何だろうか・・・???

少し、歴史を紐解いてみよう・・・。

平安時代、日本最初の武家政権と言われる平清盛による六波羅政権(1167年?)以前は、天皇、上皇、あるいは高位の貴族が政権を争い直接統治していた。

六波羅政権以降は、武士の力が強くなり、次第に天皇あるいは高位貴族を巻き込んだ政権争いに移っていった。

そして、源頼朝により、鎌倉幕府が設立(1185年)されると、公家政権は武家政権に従属し、天皇は象徴天皇へと移行していく。

鎌倉時代半ばには、皇統(天皇の血統)は、皇位継承を巡って大覚寺統と持明院統に分裂し、鎌倉幕府の仲介によって、大覚寺統と持明院統が交互に皇位につく両統迭立(1242年)という形に陥った。

更に、鎌倉末期に入ると、朝廷の皇位継承を巡り、縛を相まみえた混乱期を迎え、後醍醐天皇の反乱により鎌倉幕府は滅亡へと向かう。

鎌倉幕府は滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政(1333年)が敷かれたが、僅か3年で足利尊氏の離反により政権は崩壊。

尊氏により室町幕府が設立(1336年)されるが、朝廷は、持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化し、両統から二人の天皇が並立し、京都の北朝と吉野の南朝という二つの朝廷が並存する王権の完全な分裂状態に陥ってしまう。

両統並立は、56年間続くが、室町幕府三代将軍足利義満の斡旋により、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝がようやく統一(1392年)される。

しかし、これは表向きであり、両統迭立の約束が守られることはなく、持明院統の皇統を継続したい南朝の遺臣たちによる皇位の回復への反抗が15世紀半ばまで続き、これじゃ後南朝(~1499年)と呼ばれる。

乱世により室町幕府の権力は完全に失墜し、全国各地に戦国大名と呼ばれる勢力が出現し、戦国時代(1467年)へと突入する。

武田信玄、上杉謙信、北条氏康、毛利元就、織田信長、徳川家康、伊達政宗、真田幸村、加藤清正等々、名だたる戦国武将が群雄割拠した戦国時代は、織田信長が、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、時勢を捉えて勢力を拡大し、婚姻による同盟策などを駆使し領土を拡大し、足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令することにより収束の兆しが見え始める。

信長は、この後、足利義昭を追放して、室町幕府を滅亡(1573年)させる。

この頃、朝廷の財政は逼迫し、権威も地に落ちかけていたのだが、信長は、逼迫していた朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により回復させた。

その一方で、信長は天皇の権威を利用し、敵対勢力に対して「勅命講和」という方式で、なし崩し的に、傘下に組み入れていった。

本能寺の変(1582年)による信長没後、明智光秀を討った豊臣秀吉は、織田政権内での主導権を掌握し、清洲会議にて信長の後継者としての地位を固め、関白・太政大臣に任じられた後、天下統一(1590年)を果たす。

秀吉も信長同様、天皇の権威を利用するために、その権威を高める必要があり、朝廷の威信回復に尽力した。

秀吉没後、関ヶ原の戦いを経て、徳川家康により江戸幕府が設立(1603年)される。

家康は、第二代将軍・秀忠、前関白・二条昭実の連署の元、禁中並公家諸法度(1615年)を制定し、公家のみならず天皇までを包含する基本方針を確立し、以後、幕府は朝廷の行動を制約する法的根拠を得て、公武の在り方を既定路線として敷いていくのである。

この第壱条が凄い!

『天子諸藝能之事、第一御學問也。』

要は、『皇は学問だけに打ち込むこと』ということである・・・ヽ((◎д◎ ))ゝ ひょえぇ~

これ以降、天皇の地位は、幕末に到るまで形骸化された状態が続く・・・。

265年という長きに渡る治世が続いた江戸時代だが、蒸気船2隻を含む艦船4隻が浦賀に現れ、所謂、黒船来航(1853年)だが、情勢が一変していく。

国論は、開国・攘夷をめぐって二分するものの、幕府は200年来の鎖国方針の大転換を計り、開国のための通商条約を結ぼうとする。

しかし、攘夷論を唱える者からは、西洋の軍事的脅威に屈したと受け取られ、幕府の威信は急落し、幕府は沸騰する攘夷論を抑え通商条約を締結する為に、朝廷の権威を頼らざるをえなくなっていく。

そして、尊皇攘夷、公武合体、開国、倒幕、王政復古と一見すると相反する思想の流れの中で、15代将軍徳川慶喜が大政奉還(1867年)を行い、江戸幕府の終焉を迎える。

如何だろうか?

歴史を紐解いてみて、皇室に物を送ることにステータスはあっただろうか・・・( ̄へ ̄|||) ウーム

少し長くなったので、次回、もう少し歴史にお付き合いいただきたい。