「真実の口」832 東日本大震災慰霊の旅⑫

前回の続き・・・。

久慈市を出て、約1時間30分、次の目的地である宮古市田老にある常運寺に到着した。

隣接する田老総合事務所には、津波が到達した高さが記録されていた・・・。

田老総合事務所

ここには、3つの津波慰霊碑がある。

つまり、3度、津波に襲われたと言うことだ・・・。

1896年(明治29年)6月15日午後7時32分30秒に発生した明治三陸津波海嘯死者碑。

明治三陸津波海嘯死者碑

1933年(昭和8年)3月3日午前2時30分48秒に発生した昭和三陸大海嘯溺死者慰霊塔。

昭和三陸大海嘯溺死者慰霊塔

2011年(平成23年)3月11日(金)14時46分18.1秒に発生した平成三陸海嘯物故者諸々霊の碑。

平成三陸海嘯物故者諸々霊no

この田老地区は、巨大防潮堤で名が知れていた地域である。

宮古田老巨大防潮堤

1958年(昭和33年)に完成した1期工事の防潮堤は、1960年(昭和35年)5月23日に発生・来襲したチリ地震津波の被害を最小限に食い止める事に成功している。

そして、44年の歳月をかけて、1982年(昭和57年)、海抜10m・総延長2,433mの巨大な防潮堤が完成したのだが・・・。

東日本大震災による大津波は、この防潮堤を嘲笑うかのように、人智の想像を超えて、町内を襲い、全域が壊滅状態となってしまった。

住民達は、「防潮堤に過信があった」と振り返っている・・・。

田老総合事務所には、昭和三陸津波から70年を祈念して、「津波防災の町宣言」の碑が設置されている・・・。

「津波防災の町宣言」の碑

まさ、それから6年後に、巨大津波に襲われるとは、誰も想像が出来なかったことと思う・・・。

宮古市田老の震災遺構として、国費が投入されて遺されることになった「たろう観光ホテル」。

たろう観光ホテル跡

複雑な思いを馳せながら、宮古市を後にした・・・。

車を走らせて、30分位経った頃だろうか・・・?

私が、前回のブログで危惧したような標識が・・・!

標識②

前方2,290m、後方2,880m・・・。

あなたなら、どちらに逃げるだろうか?

ここあたりの山側は切り立っていて、とてもじゃないか、登れるものではない・・・。

二者択一・・・!

もし、その時、子供を連れていたら・・・?

更に、車ではなくて、徒歩だったら・・・??

頭で思考するが、その時の直感でしかないのかなぁ・・・???

目的地へ向けて、更に、南下していく。

釜石市根浜海岸にある『津波祈念石1号』が目的地である。

津波祈念石は、全国の石材店300社あまりで組織されている墓石業の専門店グループ“全優石”が、長く後世にメッセージを伝え、被災された方々の心の拠りどころになるようにと考え、各地に祈念石を設置しているプロジェクトの一環である。

国道45号線から離れて、海岸線を走らせていると、海をバックにして、『津波祈念石1号』が建っているのが見えた。

津波祈念石1号①

碑には、こう書かれている。

津波祈念石1号②

ともかく上へ上へ逃げよ。
てんでんこで逃げよ。
自分を助けよ。
この地まで、津波が来たこと
そして、裏山へ逃げ
多くの人が助かったことを
後世に伝えてほしい。

また、石碑にはステンレスに刻まれたQRコードが貼り付けられ、訪れた人が携帯電話で読み取るとホームページにリンク、津波前の街や津波の様子、そして未来に伝えるメッセージなどを見ることができるようになっていた。

QRコード①

QRコードが読み取れない場合は、下記サイト見ることが出来る。

http://tsunami-ishi.jp/kamaishi-nebama/

そして、全優石のHPを見てみたら、この石の加工には、更に、深い意味が込められていた。

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この津波記憶石はお墓などの通常の磨きの工程より1段階前で磨きを止めています。

なぜか。

この津波記憶石の表面を皆さんに触っていただき徐々に磨きがかかってくるようにしたかったからです。

言葉を言いかえるならば永遠に完成はしていないのです。

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私は、お経を唱え、犠牲者の冥福を祈った。

次回へ・・・。