「真実の口」849 東日本大震災慰霊の旅⑳

前回の続き・・・。

釜会館を後にした私は、とある場所へ向かった。

この日の最終目的地である。

そこは、多くのメディアで、悲劇の舞台として取り上げられた大川小学校である。

実は、これまでの東北訪問でも、何度か訪れていたのだが、当ブログではあえて取り上げてこなかった。

・・・と言うより、大川小学校を訪れて、その被害状況を自分の眼で捉えてみて、とてもじゃないが取り上げることが出来なかった。

毎日新聞が、4月19日の朝刊で、父母、児童、近隣住民らの証言をまとめて詳しく報じているので、敢えて、権利関係も無視して、全文を掲載してみる。

ただし、実名がでてくる部分は、イニシャルにさせていただき、大半は名字の頭文字を、児童・保護者・配偶者は名前の頭文字で表現している。

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全校児童108人中死者64人、行方不明10人と、学校では東日本大震災最多の犠牲者が 出た宮城県石巻市立大川小学校。追波湾(おっぱわん)から同市長面(ながつら)地区に上陸 した津波は、湾奥部の北上川河口から約4キロにある大川小の2階建て校舎、そして校庭から 避難し始めた子どもたちと先生の列をのんだ。住民や関係者の証言から、激しい揺れにパニッ クに陥った学校の惨劇が浮かび上がる。

大川小学校周辺地図

◇校舎のんだ津波「裏山に階段あれば…」

その時

「ありがとうって伝えたくて」。3月11日午後、2階の4年生の教室に、育ててくれた父 母への感謝の気持ちを込めた児童の歌声が響いていた。10歳を祝う「2分の1成人式」の記 念DVD用に、担任のS先生(27)が録音していた。Sさん(10)は振り 返る。「(歌の)2番にいかないくらいだったかな」。激しい揺れに歌声が悲鳴に変わった。 校内は停電。机の下に入った子どもたちは先生の指示で校庭の真ん中に集まった。

先生たちは児童を座らせ、点呼を取った。近所の人たちも避難してきた。当日、娘の卒業式 で市外にいたK校長(57)は「この時、恐怖と混乱から泣き叫んだり、嘔吐(おうと) したりする子どももいた」と後日、報告を受けた。学校は、混乱していた。

自宅から車でSさんを迎えに来た母Kさん(33)は学校到着を午後3時25分ごろと 記憶する。「名簿を手に、迎えに来た保護者や避難住民に応対する先生たちもいた」。Sさんを車に乗せ、アクセルを踏んだ。「津波はここまで来ない」と思いつつも、北上川より5メ ートルほど高い堤防近くの新北上大橋に向かい、さらに標高のある南を目指した。

避難を呼びかけるため広報車で河口に向かった市職員、Tさん(53)は3時20分ごろ、学校から約1キロ海側の墓地近くにいた。「沿岸の松林の奥に水しぶきが見えた。津波 だと思った」。Uターンして拡声機で繰り返した。「津波です。避難して」

黒い波

大川小がある釜谷(かまや)地区の東隣、長面地区の農業、Sさん(75)は、妻Kさん(72)と車で釜谷地区に向かった。「80キロほど出ていたと思う。後ろから浮世絵に描かれた波を黒く塗ったような波が、縦にぐるぐる回転しながら迫ってきた。大川小前で 校庭にいる子どもたちの姿が横目に見えた」

学校では、体育館や校舎2階に避難できるか校内を見回った先生もいたが、避難住民ととも に新北上大橋のたもとにある交差点に向かうことになった。その距離約200メートル。高さ は堤防や校舎の屋根とほぼ同じだ。校庭から列になって釜谷交流会館の脇を通り、裏山沿いの 裏道を歩いた。

同じ長面地区のNさん(71)と妻Mさん(66)は6年の孫R君(12)、4 年のI君(10)兄弟を迎えに車2台で学校に着いた。Nさんは車外に出て兄弟を乗せたMさんと避難先を相談していた。校庭から先生と児童の列が出てきた。

Nさんは「列が裏道に進み出した時『バリバリ』という音とともに黒い水しぶきが来た」。 Mさんと兄弟を見失い、子どもたちに叫んだ。「山さ上がれ」。裏山の斜面に飛びついた。 雪で滑り、波にのまれたが、押されるように斜面に上がった。3メートルほど先の水面に女の子がいた。そばの竹を左脇に抱えるようにして腕を伸ばし、手を握った。

R君とI君は1週間後、遺体で見つかった。Nさんは「近くにいたら、なんぼでも助けたんだけどな」。Mさんは、見つかっていない。

判断

列の後方に、5年生の男の子がいた。津波の翌日、男の子を保護した顔見知りの男性によると、男の子は震災から1カ月が過ぎたころ、当時の状況をこう明かした。

すごい音がして、津波が前から来た。腰を抜かし、その場に座り込んだ子もいた。自分で判断して、裏山に逃げた。竹林で他の男の子2人と大人十数人と一緒になり、一晩過ごした。大人が持っていたライターで火をおこした。「眠れば死ぬんだからな」と言われ、一睡もしなか った。

当時大川小にいた先生10人と事務員1人のうち、S先生を含む9人が死亡し、1人は 行方不明のままだ。助かったのは裏山を駆け上がった40代の男性教諭1人。この教諭は山を登る際、倒木で負傷しながら近くの男児1人を押し上げるように助けたという。

その後

なぜすぐに裏山に避難しなかったのか。大川小学校の惨劇への疑問は、この一点に集約される。

石巻市は、大川小学校への津波到達を想定していなかった。市の「防災ガイド・ハザードマップ」は、同小を避難所として「利用可」としている。K校長は「堤防を越える津波が来たらもたないので、山に避難場所をつくろうと職員で話はしていた。裏山は泥炭地でつるつる足が滑るので、階段をつくれるといいなと話していたが、そのまま震災になった」と明かす。

校舎に残る三つの時計は、いずれも3時37分を指し止まっている。地震から津波到達まで、 恐らく40~50分あった。9日の保護者への説明会では、校庭で点呼を取るなどした対応に「なんですぐに逃げろって言わなかったのか」と非難の声も出た。だが一方「108人誰も欠けないように点呼し、先生はよくやってくれた。誰が悪いと思ったことはない」と話す保護者もいる。

Kさん(42)は避難所から学校周辺に通い、今も毎日、行方不明の三姉妹の末っ 子、6年生のAさん(12)を捜す。「あの日、自転車で『行ってきます』って出かけたままで。私はずっと待ってる。もう帰ってきてもいいころだよ」

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津波で児童や教師ら84人が犠牲となった宮城県の大川小学校では、いまだに児童4人の行方が分かっていない・・・。

周辺の平地は、ほぼすべて捜索を終えているそうなのだが、震災から4年2ヶ月経った5月11日、家族の希望もあり、小学校から約800m離れた山の斜面で、初めて手作業での捜索が行われた・・・。

また、宮城県石巻市立大川小学校の遺族は、「救えるはずの子どもの命を守る義務を果たさなかった」などとして、宮城県と石巻市を相手に損害賠償を求める訴訟を仙台地裁に起こし、係争中である。

皆の心に平穏が訪れることは無いのだろうか・・・?

大川小学校

読経・・・。

次回へ・・・。