長々とこのテーマについて書いてきたが、結論に入りたいと思う。
まず、創造=破壊であるということを常に頭に置いていただきたい。
そのうえで自然にあるものか?無いものか?を考えて行動しては如何だろう?
とは言え、人間が文明的な生活をしていくには、こんなことばかりに囚われるわけにはいかないと反発されるだろう。
そこで、もし何か創造しなくてはいけないときには、太陽、風、水、土、空気に過度な影響を与えないか考えてはどうだろう?
前回の寄稿で東京湾岸の高層ビルの影響でヒートアイランド現象が起きていると言うことを書いたが、あれは風を止めたからに他ならない。
自民党政権下と民主党政権下でも問題になったダムの建築もそうである。
果たして、その工事が本当に必要なのか?
もしかしたら人間が家を建ててはいけないところに、家を建てたり、川を治水すると言って、川の流れに逆らったりしていないだろうか?
我々はどうあがいても、自然に勝てるものではない。
また、操ろうと思って操れるものではない。
自然のエネルギーは常にゼロに働こうとする。
それも、その根源のバクテリアに始まる。
バクテリアのバランスを如何に取るかが大事である。
バクテリアは我々が何もしなければ、勝手にバランスを取ってくれる。
バクテリアのバランスが取れれば、植物、生物、全てのバランスが勝手に取れる。
林・森、川・湖・海、土中、空中のバランスが取れる。
ひいては、地球全体のバランスが取れる。
我々が、ほんの少し自然界にある?ない?を考えるだけで、地球環境も随分と変わるはずである。
これらのことを考慮して、それでも創造したほうが良いと判断し、太陽、風、水、土、空気に過度な影響を与えないのであれば、抗酸化溶液を利用して、バクテリアにバランスを取ってもらいながらであれば、人間も自然と共生できるのではないだろうか?
去る講演会で腐敗も発酵も同じ行程であるということを盛んに理屈で考えようとする人が質問していた。
発酵も腐敗もバクテリアが有機物を分解すると言う方向性では変わりないのだが、人間が好む環境を作るか?人間に嫌いな環境を作るかという立ち位置で考えたときにベクトルは変わってくるのである。
抗酸化溶液は少しだけ人間が好む環境にバクテリアのバランスを導いてくれるだけなのである。
物が腐って行く環境に身を置くより、物が発酵することより、それを利用できる方に身を置くが良いのではないだろうか?
話を変えるが、我々の生きている社会で自然界にないものを考えてみよう。
国境・・・
金・・・
宗教・・・
もし、これらが無ければ、戦争や争いごとは起きないのではないだろうか?
自然界のエネルギーはゼロに働こうとすると言ったが、残念ながらお金だけはゼロの方向に作用しない。
小さい方から大きい方へ、貧しい物から富める物へと流れていく。
もし、我々人間が、国境を捨て、お金を単なる交換手段であるという考えに立つことが出来れば、人間はもっと笑って暮らせるような気がしてならない。
そこに抗酸化溶液の意義があるような気がする。