前回の続き・・・。
安東には、4 時前に着いたのだが・・・。
ナビを使っているにも拘らず、二度ほど迷う明春・・・?
栄春もそうだったのだが・・・??
血筋か・・・???
会場は、当 Blog でも何度も登場している“白い象農園”・・・。
残念ながら、現在は、リンゴの完全無農薬・無肥料を断念して、別の作物を作っている。
・・・と言っても、兪(ユウ)さんの場合は、特殊な事情で失敗したのだ。
当初、私は、徐々に農薬と肥料を減らしていきましょう!
一年目は三分の二。
二年目に二分の一。
三年目に三分の一。
四年目で完全無農薬・無肥料。
・・・と、提案したのだが、兪さんは、「一年目から、完全無農薬・無肥料に取り組んで、それを安東、牽いては韓国のスタンダードにして行きたい。」と熱意を持って語られたのである。
そこで、私も、ついその熱意に絆(ほだ)されて、一緒に取り組みましょうと固い握手を握ってしまったのだ・・・(´∀`;)yトホホ
その後の結末は、以下を参考にしてほしい・・・。
しかし、この時でさえ、私は諦めていなかった・・・。
ただ、残念なことに、この年の 7 月 8 日に、我が友・栄春が転倒と言う不慮の事故により、急逝してしまったのだ。
上記 Blog に、スケジュールだけは記していたのだが、この直前の 1 週間、栄春の案内で、韓国国内を東奔西走していたのだ。
流石に、私自身ショックが大きかったので、この時の訪韓記は寄稿していない。
4 月 26 日の白い象農園の訪問から 2 ケ月と 1 週間後の 7 月 3 日に白い象農園を訪れている。
4 月時点では、農協や農家仲間から、「農薬・肥料を使わないからダメなんだ。」と完全に苔おろされていたのだが・・・。
このように実をつけていたのだ・・・!
ただ、虫が出ていたのも事実で、このような木も幾分かあった・・・。
しかし、大方の木は、実を付けていたのだ。
そして、栄春にある実験をさせた。
以下は、当時通訳をしていた金氏を介しての会話である。
私:「栄春、そこの木の葉っぱを取って、煙草を巻いて吸ってごらん。」
栄春(以下:栄)「ん?ああ。以前、言っていたこと?」
私:「まあ、良いからやってごらん。」
煙草に葉を巻いて吸ってみる栄春・・・。
栄:「あっ・・・。軽くなった・・・。」
私:「なっ!ちゃんと、抗酸化出来ているだろう?」
栄:「うん。」
私:「兪さん、自信持って良いと思うよ。土も随分、柔らかくなったし・・・。」
兪さん:「分かりました。自信もって、やっていきます。」
まさか、それから 5 日後、不幸が口を開けて待ち受けているとは、誰しも予想だに出来なかった・・・(ノ_<。)
そして、それから約 1 か月後、 2012 年 8 月 10 日、李明博韓国大統領が、自身の人気取りのため竹島上陸を行い、それに伴い、 同年 8 月 14 日、「天皇(日王が)『痛惜の念』などという良く分からない単語を持ってくるだけなら、来る必要はない。韓国に来たいのであれば、独立運動家を回って跪(ひざまづ)いて謝るべきだ。」と発言したことにより、時代は反日・嫌韓へと風向きが変わってしまうのである。
前年度の内閣府の調査では、韓流ブームの影響もあり、「韓国に親しみを感じる・どちらかというと感じる」という意見が 62.2% を占めていた。
しかし、 2012 年には、「韓国に親しみを感じる・どちらかというと感じる」と言う意見は 39.2% へと急落し、反対に「韓国に親しみを感じない・どちらかというと感じない」とする意見は 59.0% と大幅に増加するのである。
そして、 2013 年、朴槿恵政権が誕生すると、韓国の反日は先鋭化していく。
それに輪をかけて、 2014 年には、朴大統領の従軍慰安婦問題でのかたくな態度、あるいは産経新聞ソウル支局長が書いた大統領記事についての在宅起訴などによって日韓関係がさらに悪化し、「韓国に親しみを感じる・どちらかというと感じる」と言う意見は 31.5% まで凋落し、「韓国に親しみを感じない・どちらかというと感じない」と言う意見は 66.4% にまで上昇するに至る。
その間、韓国を訪れた日本人観光客の状況・・・。
タクシーの乗車拒否・・・。
飲食店への入店拒否・・・。
暴言・・・。
etc・・・。
その間、日本人の韓国・在日韓国人への態度・・・。
韓国渡航拒否・・・。
韓国食拒否・・・。
ヘイトスピーチの横行・・・。
etc・・・。
このような反日・嫌韓下の状況で、訪韓するにも至らず、 5 年という歳月が流れてしまったのだ。
私は常々、国境・金・宗教を捨てれば、戦争など無くなると言っているのだが・・・。
なかなか難しいものである・・・。
久々に会った兪さん・・・。
直接の指導が受けることが出来ずに、リンゴの栽培は止めたらしいが、環境回復農法は他の作物で続けていてくれたようだ・・・。
そして、リンゴ農園があった一角に、自身の手で、抗酸化工法の家を建てたというのだ・・・。
これがそれ・・・!
凄っ・・・!!
次回へ・・・。