前回の続き・・・。
前回、イモを野菜としてカウントしたが、「食品成分表」によると、じゃがいもは、野菜類でも、穀類でもなく、“イモ及び粉類”に分類されるようだ・・・m(_ _)m
無知でスンマソン・・・ε=┏(; ̄▽ ̄)┛
さあ、気を取り直して・・・。
ジャガイモと世界史を辿る・・・(笑)。
ジャガイモは、トウモロコシ、トマト、タバコ、トウガラシなどとともにアメリカ大陸原産の農作物の一つで、南米大陸のアンデス高地を原産地とするナス科の植物である。
声:「へ~っ・・・。ナス科なんだ・・・。南米だけに・・・(笑)。ナスカの地上絵・・・ε=┏(; ̄▽ ̄)┛」
中央アンデスの高地に自生していたものを、アンデスの人々が、長期にわたって栽培種に作り替えたらしい・・・。
野生のジャガイモは苦みが強く毒性を持つらしいのだが、彼らは独自の方法で毒抜きしたチーニョという乾燥させたジャガイモを保存用食物とするようになったという。
ジャガイモの栽培化は、紀元前 5,000 年頃と考えられており、麦類や米が作られなかったアメリカ大陸で文明を生み出す重要な農作物となったようだ。
メソアメリカ文明・・・。
アンデス文明・・・。
アンデス文明の都市文明を産みだし、支えていたのはトウモロコシであったというのが従来の定説だったようだが・・・。
その理由は、増大した都市人口を支えるだけの食糧備蓄ができるのは、穀物かトウモロコシであるというのが一般的な理解となっており、南北のアメリカ文明を支えたものの第一にトウモロコシがあげられている。
しかし、最近ではアンデス高地の文明を支えたのはジャガイモであるとの説も出されている。
この説ではアンデスの高冷地での栽培に適したものはジャガイモであり、前述したチューニョであれば、食糧備蓄が可能であることから、ジャガイモによって文明化をもたらすことができたとされている。
また、インカ帝国においても、主食はジャガイモであり、トウモロコシは儀礼用の酒の原料とされていたと考えられているらしい・・・。
1,523 年、南米大陸のインカ帝国を征服したスペイン人によってジャガイモがまずスペインにもたらされた。
ただし、その明確な時期はわからないようだ・・・。
16 世紀末まではフランス、ドイツに広がり・・・。
ドイツでは、悲惨な戦争と飢饉が続いた三十年戦争(※注 1 )( 1618 ~ 1648 )の時期にジャガイモ栽培がひろがったそうだ。
(※注 1 ) 1517 年、ルターによって切り開かれた宗教改革の中から生み出されたプロテスタント(新教)とカトリック(旧教)の対立が激化し、ドイツにおいても新旧両派の争いに加え、ヨーロッパの新旧両派の国家が介入した国際的な宗教戦争。
当時、ヨーロッパ北部の主作物は小麦やライ麦であったが、これらの穀物は収量が少なく飢饉が頻発していたようだ。
そのためヨーロッパ各国は戦争をくり返し、敵の麦畑を踏み荒らし、貯蔵庫の麦を略奪したという・・・。
それに比べるとジャガイモは畑を踏み荒らされても収穫でき、畑を貯蔵庫がわりにして必要なときに収穫できるという利点があった。
戦争の被害も比較的少なくなる・・・。
こんな理由から、ヨーロッパでは戦争がくり返されるたびにジャガイモ栽培が普及していったというのだから皮肉な歴史である。
戦争によるジャガイモの普及の発端となったのは、 1680 年代のルイ 14世(※注 2 )によるベルギー占領の時らしい・・・。
(※注 2 ) 17 世紀後半から 18 世紀初頭のフランス絶対王政全盛期の国王。ベルサイユ宮殿を造営。
ドイツでは、スペイン継承戦争(※注 3 )( 1701 ~ 1714 )の時にジャガイモが重要な作物になった。
(※注 2 ) ルイ 14 世が孫をスペイン王の継承者としたことを巡って対立したイギリス・オランダ・神聖ローマ皇帝などとの戦争。
さらに、七年戦争(※注 4 )( 1756 ~ 1763 )のときにジャガイモが東方に伝わり、プロイセン(※注 5 )やポーランドに広がった。
(※注 4 ) プロイセン王国とオーストリア間に戦われた戦争で、この戦争に関連して同時期に北米、インドの両植民地でイギリスとフランスの戦争も行われた。
(※注 5 ) ブランデンブルク=プロイセン公国のホーエンツォレルン家は、 1701 年のスペイン継承戦争で、オーストリアのハプスブルク家側に立って参戦し、その功績により、王国に昇格し、以後、プロイセン王国と言うようになる。
スウェーデンでは、七年戦争時、フランス側に立ってプロイセンと戦ったが、得るところはなかったものの、このとき兵士たちがジャガイモを持ち帰ったことから“ジャガイモ戦争”とも比喩され、その後、ジャガイモは主食とされるようになる。
更に、ナポレオン戦争(※注 6 )( 1795 ~ 1814 )によってロシアにまで拡大した。
(※注 6 ) フランス革命の中から登場した英雄ナポレオンが皇帝に上り詰め、フランス革命の理念によるヨーロッパ統一を目指して、各地に遠征した戦争。戦いの構図としては膨張主義を取るフランス第一帝政に対して、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンを中心にした国々が次々と対抗同盟を結成し、イギリスやロシアとの戦いに敗北し、ヨーロッパの統一に失敗したナポレオンは最終的に失脚する
18 世紀のプロイセン王国のフリードリヒ大王は、ジャガイモ栽培を農民に強制し、飢饉から人々を救ったとされている。
当時、家畜の餌とされていたジャガイモを、人間が食べるようになったという。
また、フリードリヒ大王の最後の戦争が、バイエルン継承戦争(※注 7 )( 1778 ~ 1779 )では、オーストリア軍との間で、互いに敵国のジャガイモ畑を荒らしあったことから、この戦争もまた“ジャガイモ戦争”と言われているらしい・・・。
(※注 7 ) バイエルン選帝侯領の相続をめぐるプロシアとオーストリア間の戦争
一説では、戦闘がヒマで兵士がジャガイモ栽培に精を出したためだとも言われているようだ。
イギリスでは、始めは有毒で危険な作物であるとか、聖書に書かれていないから「悪魔の植物」だ、などといわれて普及しなかった。
広がったのは、他のヨーロッパ諸国より遅れて 19 世紀中ごろらしい・・・。
しかし、隣国のアイルランドでは風土に適していたからか、 17 世紀からジャガイモが取り入れられ、 18 世紀には主食とされるようになったようだ。
ところが、 1845 年から始まったジャガイモ疫病の大流行によってジャガイモ飢饉といわれる大飢饉に陥った。
この飢饉は 1851 年まで続き、食糧不足と体力不足からチフス、赤痢、コレラなどが流行し、 100 万人超が犠牲となったと言われている。
犠牲が大きくなった原因は、アイルランドの食料がジャガイモだけに依存していたこと、緊急食料輸入が穀物法(※注 8 )で制限されてできなかったことなどがあげられている。
(※注 8 ) 14 世紀から 19 世紀にかけて、イギリスにおいて穀物の需要供給を調節し、価格の維持を図り、地主や農業経営者の利益を保護するため制定された諸法令。
大飢饉に直面したアイルランドでは貧困化が進み、アメリカ大陸などに移民として逃れていくこととなった。
最終的には、人口の少なくとも 20% が餓死および病死、 10% ~ 20%が国外へ脱出したという。
また、これにより婚姻や出産が激減し、最終的にはアイルランド島の総人口が最盛期の半分にまで落ち込んだというのだから、恐ろしいものである。
また、アイルランド移民の手によってもたらされたジャガイモが、アメリカ独立戦争における兵士たちの胃袋を満たす貴重な食料源となったという。
近世に於いて、ジャガイモは重要な役割を担ってきたと言えるのではないだろうか?
それでは、何故、アイルランドのジャガイモは大飢饉と言われるほどの被害に及んだのか?
これが、前述した“遺伝的多様性”に繋がるのである。
ジャガイモは通常、前年の塊茎(種芋)を植えるという無性生殖(※注 9 )による栽培法を用いるが、当時のヨーロッパでは収量の多い品種に偏って栽培されており、遺伝的多様性がほとんどなかったようだ。
(※注 9 ) 親の体の一部が独立して新個体になったり、生殖細胞が他の細胞と融合せずに単独で発生や発芽を始めたりする生殖の方法のひとつで、1つの個体が単独で新しい個体を形成する方法。進化生物学では、遺伝的組み換えなしにクローンの子孫を作ることを無性生殖という。
そのため、菌の感染に耐え得るジャガイモがなく、菌の感染が拡大していったというわけだ。
ジャガイモ原産地のアンデス地方では、ひとつの畑にいくつもの品種を混ぜて栽培する習慣が伝統的に存在し、これが特定の病原菌の蔓延による飢饉を防いでいたのだ。
以上、ジャガイモを見ることによって、“遺伝的多様性”の重要性を説明させていただいた。
次回へ・・・。