3月17日・・・。
私事だが、今日で、いよいよ50歳である・・・( ̄へ ̄|||) ウーム
論語には・・・。
子曰く、「吾、十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)ふ。七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず」とある。
不惑という言葉は、一般的に良く使われるので、聞いたことはあると思うが、それぞれ、以下のようになる。
志学=十五歳
而立(じりつ)=三十歳
不惑=四十歳
知命=五十歳
耳順(じじゅん)=六十歳
従心(じゅうしん)=七十歳
この意味は・・・。
「孔子は言います。
私は、十五の時に学問で身を立てようと決心しました。
三十の時に、学問などの基礎がきちっとして、独り立ちができるようになりました。
四十の時に、狭い見方に捕らわれることなく、心の迷いがなくなりました。
五十の時に、天が自分自身に与えた使命を自覚しました。
六十の時に、何を聞いても素直に受け入れることができるようになりました。
七十の時に、自分がしたいと思う言動をしても、人の道を踏み外すことがなくなりました。」
・・・となる。
私自身に当てはめれば・・・。
志学・・・昔から、何かを学ぶのは好きだったから◎
而立・・・30歳の時に外資系保険会社へ転職し、個人事業主になったから〇
不惑・・・抗酸化に携わり出して、数年、自身の進む道に迷いは無かったなぁ、だから◎
知命・・・これは、株式会社会田総合研究所を設立した時から、持ち合わせているので◎
。* ゚ + 。・゚・。・ヽ(*´∀`)ノ
話しは変わるが、幸若舞の演目の一つ『敦盛』の中に、織田信長が好んで演じたと言われている一節がある。
舞台は源平合戦・・・。
『思へばこの世は常の住家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩薩の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ』
意味は・・・
『いつまでもこの家で暮らせるわけでなし
やがて埋められ草葉の陰の露ともなるだけに、水に浮かぶ月よりも怪しくも儚いばかり
晋代の金谷園で詩宴に興じようとも、その栄華のさ中にも、空しく時の風に消し飛ばされよう
四川の南楼での月下の眺望に旅愁を満喫しても、いつか叢雲に被われ辺りはただ暗闇ばかり
この世に在ってもせいぜい五十年どまり、後の天の片隅暮らしの長さから比べたら、ほんの一夢たらず
ひとたび生まれてきたとしても、必ず滅びるにきまったこの定め
これこそ悟りの智慧と有難く観じられなければ、ただ悔しくも落胆に暮れるばかりではないかと…』
私もこの節が好きで、特に、『人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり』という所は、時々、口に出すくらいである。
そして、私も五十歳になり、新しい五十年が始まった・・・!
さあ、どんな五十年になるのやら・・・( ̄ー ̄)ニヤリ