前回の続き・・・。
小泉小学校を後にした私は、海岸線を南へと車を走らせた・・・。
南三陸町に入り、しばらくすると、大漁旗がたくさんたなびく所に遭遇した。
“伊里前福幸商店街”とある・・・。
嘗(かつ)て、この辺りに有った商店街や町はことごとく流失し、商店街は存亡の危機に有ったが、仮設商店街を皆で作り、頑張っているらしい・・・。
http://isatomae.jimdo.com/商店街のお店紹介/
私もマルタケ大衆ストアにて、お奨めのめかぶサラダを購入・・・。
因みに、“伊里前福幸商店街”の前の眺望は、未だに、こんな感じである・・・。
そして、商店街の後ろには、JR東日本気仙沼線の歌津駅があった。
しかし、気仙沼線は、前谷地(実際には小牛田)駅から気仙沼駅までの路線だったのだが、南三陸町を始めとして、いたるところで津波の被害を受けおり、現在は、柳津駅から気仙沼駅までの間は、バスでの運行となっている。
歌津駅では、21012年12月より、BRT(Bus Rapid Transit:バス高速輸送システム)という方式で供用運営が実施されている。
“伊里前福幸商店街”を後にして、20分くらい車を走らせると、南三陸町のシンボルとなっている“南三陸町防災対策庁舎”に着いた。
被災後、庁舎は震災のモニュメントとして震災遺構の役割を果たしてきた・・・。
当初、南三陸町では、「災害を忘れないためにも庁舎をモニュメントとして残したい」という保存の意向を示していたが、2013年9月、「遺構の保存は、小さな町には荷の重すぎる問題である」とし、存続か解体かで、揺れ続けていた・・・。
これに対して、宮城県は、時間をかけて冷静に議論するため、震災から20年後の平成43年まで、県有化して県が維持管理する方針を南三陸町側に伝えていた。
しかし、町は回答を一旦保留し、遺族説明会を開いたり、町民を対象に意見を募ったりして、検討を続けてきていた。
このブログは7月1日に書いているのだが、昨日6月30日、南三陸町民のパブリックコメントの結果(保存賛成6割)及び町議会での請願(保存)の全会一致での採択もあり、南三陸町長は県有化を受け入れることを表明した。
このことにより、防災対策庁舎は2031年まで宮城県が保存管理することとなった。
写真をご覧になって判るとおり、庁舎の周囲は、嵩上げ工事が急ピッチに進んでいる。
焼香台が置かれていたので、お経を上げる・・・。
“南三陸町防災対策庁舎”を後にした私は、女川町に向かった・・・。
実は、過去何度も東北入りしている私だが、国道45線を使用していたため、女川町を迂回する形となり、これまで行ったことがなかった。
女川町に着いてみると、やはり、嵩上げ工事が行われていた。
そして、ニュースでは何度も見聞きしていた“女川町地域医療センター”へと車を走らせた。
震災前、町内唯一の医療機関であった旧女川町立病院が、平成23年10月から介護施設と一体化され、女川町地域医療センターと改称された施設である。
津波避難場所に指定されていたが、病院1階の天井付近まで浸水し、浸水痕と避難者の目撃証言によると、18.8mの高さまで襲ってきたという・・・。
女川町地域医療センター救急入口の柱に示された「津波の記録」。
「2011年3月11日津波到達高 1階床より1.95m」とある・・・。
センター2階には、誰でもが閲覧できる震災当時の女川町の写真とセンターの現状が、展示されていた。
そして、センターを背にして、海を望むように建てられた慰霊の碑・・・。
読経・・・。
慰霊碑から回り込むと、“千年後の命を守るために”という石碑が建てられていた。
東北芸術工科大の前田耕成教授がデザインを担当し、『女川町の大切なもの、女川町の宝物』をイメージして作られたものらしい・・・。
碑には・・・。
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ここは津波が到達した地点です
もし大きな地震が来たら
この石碑よりも上に逃げてください
逃げない人がいても ここまで
無理矢理にでも連れ出してください
家に戻ろうとしている人がいれば
絶対に引き止めて下さい
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・・・とある。
これは、震災後、女川中学の1年生が、「津波対策として町内にある21の浜の津波が襲って来た高さの地点に石碑を建てる。」と企画立案し、動き出した「いのちの石碑プロジェクト」によって建てられた碑である。
2015年6月現在、6つの石碑が募金により建てられている・・・。
現実にとらわれる大人達より、子供達の方が、未来を見据えているのかも知れない・・・。
帰ってから解ったのだが、この石碑は、津波記憶石28号でもあった。
次回へ・・・。