「真実の口」2,060 ‟がん”という病 ⑦~織田信長編(その1)~

前回の続き・・・。

5 回に渡り、‟がん”予防法を紹介した。

今回のテーマの第一回目で、何故、‟がん”に罹るのかということを寄稿した。

単純に考えてみたいのだが、自然界では、‟がん”とはどういう位置づけなのだろうか?

実は、‟がん”で死ぬ野生動物はほとんどいない・・・(笑)。

その理由は、遺伝子に異常が蓄積されて‟がん”になる前に、捕食されるか、病気、心不全あるいは怪我で死ぬからだ。

人間は、医療の発展と食生活の改善により長生きするようになったため、 DNA に‟コピーミス”が繰り返され、‟がん”と共存しなくてはいけなくなったのである。

自然界では、‟種の保存”あるいは‟自己再生(リモデリング)”こそに生きていく意味があるのである。

生殖が終わった個体が生きていても子孫は増えず、種にとってはメリットはないのではないだろうか?

群れに、生殖が終わった老個体がいて、捕食動物に襲われたり、自然災害にあったりした場合、群れは、有無も言わさず足手まといとなる老個体を置いていくのが自然の摂理である。

少し脱線するが、‟織田信長”と言えばだれもが知るところの戦国大名である。

その信長だが、ドラマで描かれるときは、必ず、「人間五十年~」と謡いつつ舞う姿が描かれる。

これは、『信長公記』という信長の一代記に基づくもので、信頼性の高い資料として知られ、‟桶狭間の戦い”の際に、信長が「人間五十年~」という‟幸若舞”の演目の一つ‟敦盛”を舞ったという記述があることから信長が好んでいたことが伺える。

元々は、治承・寿永の乱(源平合戦)の一戦である須磨の浦における「一ノ谷の合戦」で、平家軍が源氏軍に押されて敗走をはじめた際の、平清盛の甥にあたる若き笛の名手でもあった平敦盛の話である。

敦盛は、退却の際に愛用の漢竹の横笛(青葉の笛・小枝)を持ち出し忘れ、これを取りに戻ったため退却船に乗り遅れてしまう。

敦盛は、出船しはじめた退却船を目指し渚に馬を飛ばし、退却船も気付いて岸へ船を戻そうとするが逆風で思うように船体を寄せられない。

敦盛自身も荒れた波しぶきに手こずり馬を上手く捌けずにいた。

そこに、源氏方の熊谷直実が通りがかり、格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、平家の有力武将であろうと踏んで一騎討ちを挑む。

敦盛はこれに受けあわなかったが、直実は、将同士の一騎討ちに応じなければ兵に命じて矢を放つと威迫した。

多勢に無勢、一斉に矢を射られるくらいならと、敦盛は直実との一騎討ちに応じた。

しかし悲しいかな実戦経験の差、百戦錬磨の直実に一騎討ちでかなうはずもなく、敦盛はほどなく捕らえられてしまう。

直実がいざ頸を討とうと組み伏せたその顔をよく見ると、元服間もない紅顔の若武者だった。

名を尋ねて初めて、数え年 16 歳の平敦盛であると知る。

直実は、自身の子・熊谷直家をこの「一ノ谷の合戦」で討死したばかりで、我が嫡男の面影を重ね合わせ、また将来ある 16 歳の若武者を討つのを惜しんでためらった。

これを見て、組み伏せた敵武将の頸を討とうとしない直実の姿を、同道の源氏諸将が訝しみはじめ、「次郎(直実)に二心あり。次郎もろとも討ち取らむ。」との声が上がり始めたため、直実はやむを得ず敦盛の頸を討ち取った。

「一ノ谷合戦」は、源氏方の勝利に終わったが、若き敦盛を討ったことが直実の心を苦しめ、合戦後の論功行賞も芳しくなく同僚武将との所領争いも不調となり、翌年には、屋島の戦いの触れが出され、また、同じ苦しみを思う出来事が起こるのかと悩んだ直実は世の無常を感じるようになり、出家を決意して世を儚むようになる。

その際に、詠んだ詞章の後半(太字)を、特に、信長が好んで演じたとされる。

思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も、月に先立つて有為の雲にかくれり
人間(じんかん)五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ

訳:

思えばこの世は無常である
草葉についた水滴や、水に映る月より儚いものだ
晋で栄華を極めた金谷園(きんこくえん)も風に散り
四川・南楼の月に興じる者も 変わりゆく雲に被われ姿を消した
人間界の 50 年など、化天での時の流れと比べれば、夢や幻も同然
ひとたび生まれて、滅びぬものなどあるはずがない
これを悟りの境地と考えないのは 情けないことだ

化天(げてん)とは、仏教の六道(ろくどう/りくどう)のうち、一番上の世界である天道の中で、一番下の世界である四大王衆天を指している。

ただ、この歌自体は、仏教における六道の時間の流れの違いを述べているのであり、「人間の寿命はたった 50 年」と嘆いているのではないので悪しからず。

ただ、信長の時代以前の平安時代から、なんとなく人間の寿命は 50 年程度と認識されていたのは伺い取れる。

少し脱線が過ぎたので次回へ・・・。